僕はホモで、男で、人間だ。

22歳、人間の日々

僕の色

土曜日、朝8時。

薄切り8個入りのチョコパンをひとつ頬張って家を出た。

妙に暖かい空気とむせ返るような湿度が身体にまとわりつく。

平日に疲労を重ねた足を引きずって最寄り駅まで15分。

甲高い声を上げる改札を通り抜けて灰色のホームへ。

 

こんな時間でも電車は満員。

冷房も意味を成してなくて、人々の体温が車内の空気をつくり出してる。

この生暖かさは愛で出来てる。

みんな誰かに愛されて、ここまできて、誰かのために電車に乗ってる。

そう考えると不愉快な混雑も愛おしく思えた。

僕はこの雑踏の中でどんな色を放ってるのだろう。

 

最近、「仕事」について考えてる。

 

僕がやりたいことってなんだ?

僕ができることってなんだ?

僕は何のために生きてるんだ?

 

果てしない自問自答は宇宙の根源にまで辿り着きそうで、ちょうど良い所で辞めないと崩壊してしまう。

 

浅くも深い境地で見つけた答えは

「僕の色で世界を彩りたい」

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんて村上春樹の作品もあるけど、僕は色彩を持ってる。

どんな色?って聞かれたら困るけど。

それはとても鮮やかで薄汚れた青な気がするから。

 

でも、そう。

僕はこの自分の色で世界を彩りたい。

 

彩る

出典:デジタル大辞泉

[動ラ五(四)]
1 色をつける。彩色する。「壁を薄い緑に―・る」
2 化粧する。「ほお紅で―・る」
3 さまざまの色や物を取り合わせて飾る。「花で食卓を―・る」
4 おもしろみや趣などを付け加える。「数々の逸話で―・られた人物」

 

4番が近いかな。

このブログだってそうなんです。

まるで自分の鬱憤を吐露してるだけに見えても、でもこの駄文を読んでくれてるそこの貴方に何かプラスになることを発信したい。

 

「この世にはこんなにもがき苦しんでるやつもいるんだ(笑)」

「こいつのブログわけわかんね(笑)」

 

どんな感情でもいい。

でも、(笑)がついてくれたら嬉しい。どんなに小さくても。

 

東西線に揺られて僕は東京の港に向う。

不信や裏切りや自責に負けずに今日も大都会・東京で生活する。

僕がいるこの街、この国、この世界であなたも健やかにいてください。

個性と社会

僕は絶対特別だ。

そんなふうに言いきれる人はこわいけど、でも僕は心の裡でそう信じてる。

 

「ひとりとして同じ人はいない。」

 

これまた使い古された常套句だけど、日本社会は「ひとり」という単位を許さない。

カテゴライズされることに安堵している。

「特別」は平坦化し、「普通」にこそ美徳を覚える教育を施されてきた。

 

でも、「特別」って「他人と外れること」だろうか?

「個性」を潰すことで「社会性」が身につくのだろうか?

 

僕は「特別」と「個性」こそが社会をつくっているのだと思う。

興味も経験に基づくスキルも人それぞれ。

それぞれがそれぞれの手法で貢献し形作っているものこそ社会だろう。

 

我々は「外れている」わけだ。

ネガティヴに常套句を捉えれば、「我々は同じになれない。」ということだ。

 

カテゴリーは「安心」なんだ。

人間の圧倒的な孤独を埋めるために存在してるんだ。

 

誰かを求め、どこかに属する。

そして一匹狼を嘲笑う。

みんなひとりなのに。

 

だったらもっとひとりを肯定しようよ。

共通項だけじゃない相違点も楽しもうよ。

だって、私たちは同じじゃないんだもの。

僕しかいない部屋

独り暮らしを始めた。
自分の中でも理由なんてものは特になく、ただ独りを噛み締めてみたかった、それだけだった。

山手線から徒歩15分。毎月の6万円と引き換えに僕は7畳の部屋に住まう。
慣れない乗り換え、知らない夜道。
もう1週間は経つというのに、扉を開くと馴染みのない香りが押し寄せる。
僕はまだ部外者のようだ。

「独り暮らしを始めると親のありがたみがわかるよ」
そんな世間の言葉は、まんまと2日目に染みてきた。
掃除、洗濯、家事。
全てに自分の責任がつきまとった。
そんな当たり前のことを、僕はようやく識った。

でもそれは、「めんどくさい」と一緒に「自由」をもたらしてくれた。
全てが僕の思い通りになった。
シャンプーも、柔軟剤も、今晩のおかずも。

そして、自分がどれほど受動的に生きていたかを思い知らされた。
誂えられた環境の中でしか僕は生きてこなかった。
「選んでいる」と思っていた全ては「選んでもらった」何かだった。

 

これから、僕は全てを決めていく。
それは、とてもこわくて、とてもたのしい。
やっと僕は、僕を決めていける。

自由を手にして舞い上がってる22歳を浅ましく思うととまに、どこか誇らしくも思う。
それほどまでに、僕はこれまで、何かに縛られていたのだ。

嘘のない明日が訪れる。
僕が選んだ今日がある。
本当を謳う昨日がある。

1年後、僕はこの部屋で何を導き出すのだろう。

超満員

気持ちがすさんでいく時間。
満員電車。
胃が圧迫されて美味しく食べてきた時間も出ていきそう。

子どもの頃、まだ世界が狭かった時代。
まだまだ僕は無垢だったし、誰かを傷つけることは悪いことだって信じ続けてた。

大人になることは、汚れることだってどこか思ってた。
そして、汚れることは必然で、悪いことじゃないんだって。

でもそうやってずるくなるのは、本当に誰かのせいなのかな?

陰口も裏切りも、主体は僕なのに。

だからって今更ネガティヴなことを言わずに毎日を生きられるだろうか。
こんなにも汚れた東京で。

でも、変えたいなら自分を変えないとね。
だって傷つけられたくないもの。
人を傷つけるのも好きではないもの。

満員電車をつくりだしてるひとりとして、満員電車の外では誰も傷つけたくない。

社会なんてクソだ!!!

社会なんてクソだ!!!


22歳でようやく反社会性が身についた。(ようやく?)
僕はかなり良い子として生きてきた。

他人に求められることを体現してきた。


例えば食事。
幼少期から僕は肥満児だった。
僕がご飯をたくさん食べるとみんな喜ぶから。
僕の中に食欲なんてものは存在してなくて、
ただそこには承認欲求みたいなのしかなかった。

 

でも、肥満を社会は認めてくれない。
排他される。
僕は小学校でイジメにあった。
消える文房具、消える上履き。
ねぇどうして?僕は誰かのためにご飯を食べてるだけなのに。

 

その頃から、何か食い違ってる違和感があった。
僕は圧倒的に誰かのために生きてた。
でも、その「誰か」はいつも「皆」じゃなくて、「皆」は「僕」を認めなかった。

「僕」は何より「皆」が好きなのに。

 

社会はなんてクソだ!!!

 

いつも除け者にされて生きてきた僕は、今やっと社会をクソだと言える。
でも、僕は誰よりも社会が好きだ。
社会的でいたいと思う。
何度社会にいたぶられ、傷つけられ、嘲笑われても。
赦して欲しい。
どこか、人と違う僕を赦して仲間に入れて欲しい。

 

 

間違っているのは僕なのかな、社会なのかな。

プロのライターとアマのライターは何が違う?

マチュアのライターをやっている。
いや、ブログとか。

お金を得てないから素人のライターか。
結構言ったもん勝ち。

 

そんなこんなで、今日はプロのライターとアマチュア・素人のライターの違いなんかを考えたい。

 

その違いとは、「客観的」か「主観的」か、だと僕は考える。
人は、客観的に言葉を連ねることに慣れていない。
人は、つい主観を述べてしまう。


良いと思うもの、悪いと思うもの。
好きなもの、嫌いなもの。


それは文字を通して「自分」を表現したいからだ。
会話は言葉を通して「自分」を表現したいからだ。

 

でもプロのライターは違う。
プロはBtoBで、BtoCな仕事だ。

彼らは言葉で「クライアント」「案件」を表現する。
彼らにとって感性はフィルターでしかないのだ。

 

すごくかっこいいと思う。
ほとんど黒子、裏方。

 

小説家との違いはそういう所かもしれない。
でも、『八日目の蝉』等で知られる角田光代さんは

「自分が好きなように小説を書いたことはない」

と言っていた。
小説も自己表現のようでいて、

読者のニーズに応えるようにつくられているのかもしれない。

 

じゃあ、芸術家は、誰のために作品をつくってるの?


爆発的に人気のある芸術家は、自分のために描いたものが、常に時代に即しているのではないだろうか。

流行を鑑みて、ウケを狙ったいやらしさのない、洗礼された流行物。
そう、常に恣意的なんだ。
狙ってもいないのに、当たってる。


なぜ当たるのか?


それは、芸術家が“今”を正しく捉えられてるからだ。
今世界で何が起きていて、今自分は何を感じているのか。
それを確実にカタチにできている。
だから当たる、今の人に。


そっか、ずるいな。
たぶん、こうやって考えることもなくホンモノは素晴らしいものをつくりだせる。
感性で完敗してる。


もっと、今日を慈しみたい。
もっと、全てを大切にしたい。
もっと、感じたい。
もっと、心を動かしたい。


考えないと感性を動かせない僕は、やっぱりまだ弱い。
でも、鍛錬と意識がそれを変えてくれると、僕は信じてる。

僕を規定しないでくれ

今日、というよりも、もう昨日。

2017年5月10日、筆記試験に落ちた。

所謂超難関企業なので、一切気に病んでいない。

でもなんだろう、やっぱり筆記試験というものに違和感を感じる。

 

僕たちはいつも誰かに測られている。

学力、体力、経済力・・・

そして勝手に決められる。

「○○くん/さんて、こういう人なんだね」

そんな言葉に、僕は縛られてきた。

 

僕は、僕がわからない。

時々、すごく感情的で、時々、すごく理論的。

時々、すごく血気盛んで、時々、すごく温厚。

時々、すごく頭が冴えて、時々、すごくちゃらんぽらん。

 

なのに何故だろう、僕はどうやら既に測定が終わり、規定されているようだ。

数値化された人物像をつくりあげられているようだ。

 

それがたまらなく気持ち悪い。

そして、そこから逸れた時、人は、

「あれ、今日なんかいつもと違くない?」

と批判混じりの言葉を投げかけてくる。

 

そんなにみんなフラットなの?

そんなにみんな決まった人なの?

そんなにみんな変わらないの?

 

こんなにも浮ついていて、日によって違う自分は、間違っているのだろうか。

 

人は僕をどう見ているのだろう。

人は僕の何を測っているのだろう。

 

 

アンジェラ・アキがインタビューで

「いつか自分のライブを客席で見たい」

と語っていた。

 

今、すごくわかる。

いつか、自分と、他人として話してみたい。

僕はどう見えるのだろう。

そして、僕は、僕をどういう人間だと決めつけるのだろう。